ゲイがつらつらと書くブログ。

不協和音のアルペジオ

転職先から内定取り消しがあるか心配していたがそんなことはなく、無事4月から新しい職場で仕事が始まったのだが、想像以上の激務が待ち受けていた。転職初日から終業時間は21時を越え、翌日からは22時以降が当たり前になった。東京の緊急事態宣言を受けて、翌週から在宅のスケジュールをグループリーダーが組み、各自予定では週に1回の出勤になっていたが、業務の特性もあって在宅勤務ができたのは4月は2回だけだった。

3月までは定時に上がって有り余った時間を部屋での筋トレに費やしており、おっこれはちょっと筋肉ついてきたんじゃないのとホクホクしていたのも束の間、そんな時間と余裕がなく全然鍛えられなかったため、4月が終わるころには筋肉量と抵抗力が落ち、GWに入ってすぐ風邪をひき鼻水が止まらなくなった。葛根湯を飲んでゆっくりしていたら落ち着いたが、咳も熱も無いのでコロってはいないと思われる。

 

友人は3月に海外旅行に行っており、タイミングもあってか職場から自宅待機を言い渡され、そのまま在宅勤務にシフトしているらしく、ずっと家でゲームをしているらしい。友人はボドゲも好きだがPCゲームもかなりやっていて、彼の家にはゲーミングPCがある。ゲーマー御用達のDiscordという音声チャットツールを使って仲間と話しながらゲームをやっているということで、私もDiscordをインスコし友人や友人のゲーム仲間と話した。私はPCゲームは大学時代MMOをしていたが、一度始めると止まらなくなるので、そのせいで単位を落としかけたこともあり、現在の仕事状況を考えると手を出しづらい。

彼が居るDiscordのグループ(全員ゲイ)では皆が同じゲームをしているわけではなく、各々別のゲームをしながらなんとなく会話をしていることも多いということで、友達が少なくプライベートで暫く人と触れ合っていない私を友人は誘ってくれ、会話に混ぜて貰うことにした。

 

会話に混ざり、何人かと話しながら、今まで薄々気付いていたけれど認めたくなかったことが、ある程度の確信になった。

 

 

私はコミュ障なのだ。

 

 

気が付くと他人の顔色や反応を伺い、嫌われないようにということを優先して考えてしまっている。これが一般的に良いことなのか、悪いことなのかはわからないけれど、30代後半の私にとってはかなり悪いほうに作用してしまっている。自分の話をしなくなり、自分主体の話ができなくなっていた。自分がどう思われるのか、怖がっている。

Discordのグループで「共通点が無い人と話す時に何を話せばいいのかわからなくて困る」と相談したときに、友人がすかさず「自分の好きなことを話して相手が乗ってくればいいし、自分が好きで相手も好きそうなものがあれば当たりを付けて話してみる。もしそれで相手から興味を持たれなかったりしても、その人とはそれまでの関係かな」と言っていて、あぁ今の自分は出来てないなと思いながら、なるほどねぇと聞いていた。

私には自信をもって好きだと他人に言えるような趣味が無い。無趣味ではないが、いつからか、自分が好きなものは他人にとってはあまり意味を為さなかったり、気持ち悪く思われるんじゃないかと、そう思うようになった。それも、自分が他人にどう思われるのかを、極端に気にした結果であるのだと思う。そんな風に、私はいつの間にか、自分を守るために、自分を肯定することが出来なくなっていた。自分が思う程、他人は自分のことに興味が無いことなど、これまで生きてきて、とっくの昔に理解していたはずなのに。

学校のクラスでも、部活でも、サークルでも、友達でも、顔も知らないチャットグループの人達にさえも、嫌われないように振舞い、自分がそこに居てもいいという地位や役割を探りながら、右往左往していた。職場であまりそういった悩みが無いのは、仕事をする上で自分の役割と立ち位置がハッキリしているからなのかもしれない。私は私の役割を全うすれば良いので、迷う必要が無い。学校でも学級委員や生徒会役員をやることに抵抗はなく、むしろ自分の役割が明確であったので、どこにも所属しない学生であるよりも、私は気が楽だった。

 

私は、誰かの音に後から重なる分散和音アルペジオなのである。相手の音に合わせて和音を作ることで、自分の意味が、居場所が初めて生まれると思っている。しかし、人間誰もが常に周りと調和をとろうとしているわけではないし、意図しなくとも自然に和音が成立することもある。私の欠点は、自分だけの音を出せずに、いつでもどこでも和音を作ろうとしてしまうところにある。

独立した単旋律モノフォニーが複数ある場合、つまり誰も調和を求めていない時でも、私は不必要に重なろうとする。出せない音を出そうとする。無理をして音を出した結果、不協和音ディスコードを発生させてしまうこともあり、つまりは空気の読めない人になってしまう。自分の居場所が欲しくて、他人に合わせようと考えすぎた結果、自分の居場所を失くしてしまうのだ。

Discordで私が恋愛の話題をした際、友人から「別にそれが悪いとかじゃないんだけど、お前は恋愛の話が多めだよね」と言われた時、ついに言われてしまったと思った。私は話題に困ってしまうと、恋愛の話をしてしまう。別に恋愛の話が好きだとか、誰かの話が聞きたいとかではない。恋愛観は多くの人が持っていて、共感もしやすいしその人の考え方がわかりやすく、相手に乗っかりやすいのである。共通点を見出せず不安になり、何か皆で話せたらと思って話題にしたが、その場は特に盛り上げる必要も無く、各々が思い思いに話したいことを話したいときに話す場所だったので、私の発言は宙を舞い、メロディを持たないインターネットを漂う電子音になった。

恋愛は共通の話題かなと思って、と私が弁解していたら、「じゃあ好きなオニギリの具の話でもする?」と笑いながら言われた。ここに来てようやく私は、自分が無理をしていることに、そして今まで無理をしていたことに気付いた。皆で楽しく盛り上がれる話であれば、別にオニギリの話でも良かったし、私以外皆、別に盛り上がりたくて会話をしているわけではないのだ。そして恋愛というセンシティブな話でその人の人となりを探ろうだなんて、ある意味傲慢なのかもしれない、と。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。それでいいじゃないかと。その人が何を好きで何を嫌いかということが、その人を好きになったり嫌いになったりする理由にはならないのだと。学校の教職についていた時、「問題を起こした生徒に指導をする時は、生徒のした行為にだけ焦点を絞り、決して生徒の人格を否定したりしてはいけない」というルールがあった。気を付けながら指導は行っていたが、私はそんなことをすっかり忘れていた。裏を返せば、私自身が、その人の好き嫌いの内容で、知らず知らずにその人を評価してしまっていたということになる。そう思った時、恥ずかしくて、良い年して何をやっているんだろうと、自分が情けなくなった。

 

私はあまり自分の話をしない。自分が何を好きか、何を嫌いか、あまり発信することが好きではなかったし、SNSでもプロフ欄に何が好きかを書くことが恥ずかしいと思っていた。自分の好きなことを、趣味だと思っていることを、バカにされたり笑われたりすることが悲しかったからである。だからTwitterの投稿でも、私の人となりがわかるようなことはあまり書いていなかった。自分の職場や家族や友人、周りのことばかり書いていた。

時々私は、友達会った相手から、「何を考えているかわからない」と言われることがあった。そう言われたときは大抵「何も考えてないよ」と返していたが、実はどうやったらその人に嫌われないか逡巡している。思い返せば、そんなことを言ってくれていたということは、少なからず私のことを知ろうとしてくれていたのだと、今になってわかる。私が相手に合わせることばかりを考えていたが、相手も私に合わせてくれていたのである。そう考えたとき、今まで申し訳ないことをしたなと、反省した。寄り添ってくれる機会を、私は自ら避けていたのだ。

その結果、私には密にコンタクトをとったり共有したりするような、近しい友達はどんどん減っていった。昔つるんでいた仲間も、今はそれぞれの環境で自立していて、今や半分は連絡先もわからない。もし私がもっと自分のことを発信していたら、誰かから声がかかっていたかもしれないし、私のことがわからないから声をかけられなかったという人もいたのかもしれない。終わったことをいつまでも悔やんでも仕方ないが、勿体ないことをしたなと思う。

 

こんなことブログに書いているのを友人が見たら、「そんな面倒くさいこと考えながら今までやってきたの?疲れない?」とか言われそうだが、私は今も昔も、面倒くさいことを考える人間なのである。けど、友人には割と話したいことや言いたいことを言えている気がする。うまく言えないけれど、おそらく彼を信用しているのだ。私が何を好きでも、何を嫌いでも、私という人間を見てくれているのだと思う。ダメなことはダメと言うし、おかしいことはおかしいと言うし、その度に私は、こんな風に勝手に私自身を見つめなおす。

そしてその度に、私は友人の何か役に立っているのだろうかと考えていたが、これを機に考えないようにしようと思う。彼は私に何か役割を求めているわけではないだろうし、それを求めてしまうのは私の悪い癖で、烏滸おこがましいことなのだと思う。好き、嫌い、楽しい、苦しい。単純にそれが言える相手がいるということだけで、私は嬉しいのだ。

 

流石にSNSのプロフ欄に好きなものを並べるのはまだハードルが高いので、このブログのリンクでも貼っておこうと思う。人によってはそっちのほうが重いんじゃないかと思われそうだが、もしここまで読んでくれている人がいるのだとすれば、素直に嬉しいし貴重な時間をありがとうと伝えたい。私、こんな人なんです。

折角なのでここで私の好きなことを一つ挙げると、私はアイドルが好きである。見るのも聞くのも踊るのも好きである。特に踊る場合は、パートがあり、役割があり、そこに自分の居場所が出来るので、誰かと一緒に踊るのは性に合っていて本当に楽しい。昔一緒につるんでいた仲間は、ダンスユニットを組んでいたが、今は固定の誰かとやっているわけではないので、機会があればやってみたいと思う。界隈では今や古参となってしまった私は、お局扱いされて怖がられることもあるのだが、むしろ怖がっているのは私のほうである。怖がって新しい風に入っていけないのだ。

 

いっそのこと、ソロで踊ってYouTubeにでも投稿すれば誰かの目に留まると思い、ふと思い立って自分の踊りを映像に納めてみた。年齢の割には若く見えると勝手に自負していた私だが、撮影した動画を見ると年相応のおっさんがムチムチの身体で何やら動いている映像が完成しただけだったので、この企画は1日も経たずにお蔵入りになった。

単旋律モノフォニーを出せるようになるのは当分先かなと苦笑しながら、今日も部屋でダイエットを兼ねて往年のアイドル曲を踊り倒すことにしよう。

 

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