ゲイがつらつらと書くブログ。

モツれた糸

年の瀬である。

相も変わらず色々あったな、と1年を振り返る。仕事ばかりしている私だが、それなりに恋愛もしていた。付き合っていた人と年を越し、すったもんだの末に夏に破局し、秋からは彼氏持ちの年下の男と不倫関係にある。相も変わらず幸せになれない恋愛をしているな、と思う。

クリスマスイブの前日に、夏に別れた元カレから誘いがあった。彼からはことあるごとに連絡を貰うが、私からはしない。思い上がりでなければ、おそらく彼は私と寄りを戻したいのだと思うのだが、私にはその気が無い。仕事で忙しいからと彼からの誘いを断る。忙しいのは事実だったが、彼といると疲れてしまうのだ。

甘えたがりの彼、甘えたいけれど甘えるのが下手な私、彼は私に甘えることはあっても私が彼に委ねることは無かった。私は気を遣い続けて、息苦しくて、いつしか彼への気持ちは薄れてしまった。大事にしたいと思っていた筈なのに、「大事にしてくれるって言ったよね?」と彼に言われる度、それは楔となり、枷となり、私を苦しめた。好きな人と居るのになぜこんなに苦しい気持ちになるのか。いや、もう好きではなくなっているのか。義務感と罪悪感に圧し潰されながら自問自答を重ね、私は別れを選んだ。

 

「相変わらず面倒くさい恋愛をしてるね」

友人はハンドルを握りながら助手席の私に言う。

私だって好んで面倒な恋愛を選んでるわけじゃない、とは言ったものの、不幸専の3文字が頭を掠めた。私だって幸せな恋愛がしたい。けれど恋はいつも思い通りの方向へは進まず、時に私は幸せの形を自分で壊してしまう。30代後半にもなって惚れた腫れただなんだというのは落ち着きが無いんだろうなと自分に言い聞かせるも、これが私の生き方なのかもしれない、とも思う。つくづく私は面倒くさい。

「ドライブに行きたい」と言う友人の誘いを受け、私は友人の運転する車で、友人の地元に向かっていた。彼は東北出身の田舎っぺな私と違って関東出身なので、車で2時間もせずに地元に着ける。超が付くほどインドアな私にとって、友人とのお出かけは唯一の外出であった。友人は学生時代の思い出の場所に私を連れて行く。

少し寂れた駅前の商店街、バイトをしていた店の街並、昔デートした夜の公園。長い坂をのぼって辿り着いた夜の公園は明かりが少なく、星が見えた。すっかり冷たくなった風に乗ってどこかからカラメルの匂いが届く。甘い香りを堪能していると何故かトイレに行きたくなり、その辺で済ませようと木陰を探した私だったが、「トイレはあっち」とやんわり友人に立ちションを禁じられた私は、すごすごとトイレで用を足した。

友人は実家の話をしない。親や兄弟の話は殆どせず、もう何年も実家に帰っていないし連絡もとっていない。親なんだから連絡とったり会いに行ったら?と言う人も居るかもしれないが、私は友人に限らずあまり人の家庭環境に干渉しないようにしている。人には色んな事情があるのだ。教員時代、私は色々な家庭を見てきた。漫画やドラマの世界で自分には関係ないと思っていた世界は、現実にあるのだ。人に見られたくない、触れられたくない部分は誰しも持っているし、好奇心や老婆心で勝手に覗き込む必要は無いと私は思う。

そんな友人が、地元の駅に差し掛かった時、「おばちゃん、元気かな」と言った。親でも兄弟でもなく、友人が会いたいと思ったのは叔母だった。「ちょっと電話かけても良い?」と友人は私に訊いた。どうぞどうぞと促すと、運転中の友人は、私に電話番号を打たせた。叔母とも何年も連絡をとっておらず、引越してなければその家に居る、と友人は言った。電話が鳴る。なぜか私も緊張する。何回かコールが響いた後、女性が出た。「おばちゃん?○○だけど」と友人が本名を口にする。電話越しの女性は驚きつつも、嬉しそうな声で友人の名を呼ぶ。なぜか私も嬉しくなる。家族との電話を誰かに聞かれるのは私は恥ずかしいのだが、友人もそんな気持ちなのだろうか。そんなことを考えてなぜか私も恥ずかしくなる。近くまで来たんだから寄っていきなさいよ、と友人の叔母は電話で言う。「寄っても良い?」と訊く友人に、勿論、と私は答えた。

私と友人は、友人の叔母の家に向かった。地元のほうに車で来ることはあっても、実家や親戚の家の近くに来ることはこれまで無かったのか、友人は夜の静かな街を眺めながら懐かしんでいた。ここにこんな店が出来たのか!とか、まだこの店あるんだ!とか、童心に帰ってはしゃぐ友人は、なんだか可愛かった。そんな友人を見ながら、友人が叔母の家に居る間、その辺ブラブラしようかなと私は考えていた。

が、お友達も一緒にという御意向があり、なぜか私もお邪魔することになった。

友人の叔母さんは元気でハキハキした面倒見の良さそうな人だった。旦那さん、つまり友人の叔父さんと、床を走り回るワンコも家に居て、お茶とケーキを囲んで友人の昔話を聞いていた。友人の親や兄弟の話を聞きながら、友人の家庭環境について推察する。全部を理解したわけでは無いし、全部を理解できるとは思わないけれど、私と私の親や兄弟との関係性とは全く違っていた。どちらが良いとか悪いとかではなく、彼が彼である所以を垣間見ることができたような気がした。

1時間あまりの歓談の後、叔母さんの家を後にした。友人は近所の実家の方へ車を走らせる。実家の前で車を停め、「ここが実家だよ」と私に言った。入らなくて良い?と私が訊くと、うん、と言って友人は車を動かした。友人がどんな気持ちだったのかは私にはわからない。わかってはいけない気がした。

通っていた通学路も、街並みも、私と友人ではきっと違うものに見えている。友人はそのギャップを補うように、私に昔話を聞かせてくれ、私は相槌を打った。

夜の街は静かで、私たちの車の音だけが響いていた。

 

 

はたまた別の日、モツ鍋しようと友人からお誘いがあった。

どうやら近くのスーパーでお気に入りのモツが値引きされていて買ったらしい。この冬は飲み会も無かったし、誰かの家で鍋を囲むことも無かったので、私は二つ返事でOKした。昼にカラオケに行ってその後に友人宅で鍋を囲んだ。

スーパーでやんややんやと食材を買い、友人宅でまったりと過ごす。「最近気に入ってる映画があるんだ」と友人は私にその映画をリビングに映す。友人は少しジメっとした映画を好み、今回は北欧映画だった。私もラブロマンスやアクションよりも、ホラーやサスペンスを好むので、映画の趣味はまあまあ合うのかなと思う。映画は少し寂しく冷たい雰囲気だったが、芯には温かさがある映画で、私も気に入った。

私が映画を観ている間に友人はバッチリ鍋の仕込みをしており、見終わった後はお手製のモツ鍋を堪能した。美味い。スーパーで売っているモツは脂が無いものだと思っていたが、そのモツは店で食べるような脂の乗った生モツであった。1杯目の白だしベースの鍋をペロリと2人で空け、2杯目は味噌を入れた。モツも良いが友人は料理が上手い。恋愛対象だったなら胃袋を掴まれていたことだろう。

 

映画の感想もそこそこに、珍しく友人は私の恋愛の話を振った。

「で、彼から付き合って欲しいって言われたら、付き合うの?」

私は今年下の男の不倫相手である。彼にはさらに年下の彼がおり、もう1年以上続いている。普段は私からあれやこれやと勝手に話し、それを友人がフンフン聞くことが多いので、友人の質問に驚きながらも考える。

「わかんない」モツを頬張りながら私は答えた。

仕事ばかりしている私が、前の彼氏を大事にできなかった男が、彼を大事にできるとは思えない。彼とは割と頻繁に会ってはいるが、彼とその彼氏を別れさせてまで自分が一番になりたいとは思っていない。どういう関係がベストなのか自分でわからず、今くらいが一番良い距離感なのだと自分に言い聞かせている。これまで、相手との関係性に悩むことが多かったが、私はいま悩んでいないので、彼にとってはわからないが、自分にとっては悪くない関係なのだろう。

追いかけられると、逃げたくなる。背を向けられると、不安になる。そう歌っていたのは古内東子だったか。私には、追いかけてくる人も、背を向けられるような人も居ないほうが、落ち着いていられるのかもしれない。それはまるで鞄に入れたイヤフォンのように、パソコンデスクの下にあるケーブルのように、近くなりすぎていると知らないうちに絡み合ってもつれてしまう。もつれて、解けなくて、切ってしまうような私には、今くらいの距離が良いのかもしれない。それは少し寂しいけれど、別に悪いことでは無いのだ。恋人が居なくても楽しそうな友人を見ていると、余計そう思う。

だけど、それが正解とも限らないし、自分にとっての最終的な答えだとも思わない。いつだって、自分にとって最善と思った選択をしてきた。それが間違っていたなと思うことも沢山あった。人生はその繰り返しなのだ。私は、私が正しいと思うことをしていきたい。

そう思って鍋の〆のラーメンを4人分入れ、更にそれを2人で完食したが、やはり食べ過ぎたなと、ゴロゴロとなる腹を擦りながら帰路につく。ちびまる子ちゃんならオチのナレーションが流れるところであるが、そんなものが流れる筈もなく、私が流せたのはトイレの水だけだったのであった。

 

 

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